撤退戦ファイナル

(注:この文章は引っ越しも押し迫った大学4年の3月中旬に書き留めておいたモノです。読むと疲れます。僕も書きながら疲れた)

 3月に入っていよいよ引っ越し準備も本格化してきた。僕は2年前にも京都府京田辺市(当時は綴喜郡田辺町)から京都市内への引っ越しを経験しているが、あの頃より今回の引っ越しはもうちょっと大変かもしれない。

 引っ越しにまつわる諸々の作業を行うことは純粋な時間の消耗だ。これは間違いない。この世の中の数少ない真実だ。

 まず第一に諸手続が半端じゃなく多い。これは齢を重ね、自分を取り巻く環境が巨大化すればするほど、その総量は増大する。転出転入届やら、国民年金やクレジットカードの住所変更届やら、電気・ガスの閉栓手続きやら、携帯電話の解約やら、ああもう考えただけで意気消沈。2年前は僕の生活というものは簡素でハッピーなものだった。クレジットカードや携帯電話なんて当然持っていなかった。電話なんて自宅のものすらほとんど使っていなかったのだから。それが今ではこの通り。すでに8割型の手続きは終了したのだけど、疲労の色濃し。
 僕は元々電話で問い合わせることがあまり好きではない。僕は喋りで人に何かを伝えることが極端にへたくそだから、普段面と向かって人と話すときは「それあれ」という代名詞を用いながら、身ぶり手振りを交えて無理矢理伝えようとする。そんなわけで、店先や受付などで手続きが可能な場合は、面倒でもわざわざ足を運ぶ。きれいな受付のおねいさんともお話できるし。そんな僕が己の放つ言葉だけが唯一の情報伝達の手段である電話応対において僕の言わんとする情報を伝達することは非常に困難なことだし、したがって精神的に消耗する。できないわけではない。もう23にもなるんだし、人任せにするわけにはいかない。いざ電話をかける段になると、びしっと気合いを入れて、戦闘モードに切り替えれば大体において事はスムーズに運ぶ。でも疲れるのだ、とにかく。

 それから荷造りに時間がかかる。僕は学生という、時間に比較的に余裕のある身分だったからまだそれほど困りはしなかったが、サラリーマンの人達とかは、そりゃもう絶対時間の確保の問題で苦労するだろう。よく引っ越し会社で梱包から何から全て任せる「お任せパック」の様なサービスをしていて、けっこう需要もあるみたいだけど、ああいうのはまさに働く人達が利用するからなのだろう、と思う。
 荷物を整理しているときに、懐かしい思い出の品々が出てくるともう駄目だ。その時に抱えた想いがよみがえってきて、時を忘れて見入ってしまう。こういうときの時間の経ち方って何であんなに速いんだろう?特に収集癖のある人にとっては、この作業は困難を極めるのではないだろうか?一回一回荷物をしまうたびに、「ああこれはあの時苦労して手に入れた思い出のレコードなんだよな」とか感慨に耽ったりしてね。僕はどうかというと、この4年間の間に膨大な量の本とCDを購入したので、プレーヤーにセットして聴いてみたりなんかして全然作業が進まない。

 撤退戦。京都という土地は、僕にとって通り過ぎる風景の一部なのかもしれない。そして、僕という存在はある意味「異邦人」に過ぎないのだ、京都にとっても、僕が好きだった人にとっても。
 夏休みなどを利用して帰省するたびに僕はそのことを強く感じ続けていた。だから、単なる休み前の大掃除を僕は大袈裟にも「撤退戦」と呼んでいたのだ。発つ鳥は跡を濁してはいけない。

 さよなら、京都。