傷つく心は何処へ行く

 一人暮らしをしたことのある人なら少なからず経験したことがあると思うけど、世の中には本当に多種多様の勧誘がある。たとえば、学生の場合だったら、英会話、新聞、パソコン・ワープロ教室、イベント企画会社、カード会社等々。これらの勧誘は電話を通して行われたり、英会話や新聞は直接人の部屋にずかずかと上がり込んできたりもする。はっきり言って、興味のない内容の勧誘話を聞くのは純粋な時間の消耗以外の何者でもない。  消耗するだけならまだしも、傷つくことだってしょっちゅうあった。  新聞は大学に行けば主要新聞が揃っているし、英会話にしても高い金を払って慣れない教室に座らされるより帰国子女の友達にでも習った方がよっぽど良いので、勧誘に対してはいつもその旨を伝えて丁重に断っていた。すると彼らは人の話なんかろくに聞かないで、「ええっ?学生なのに新聞読まないの?そんなことじゃ就職できないよ」「この国際化の時代に英会話に興味がないの?そんなことじゃ良いところに就職できないよ」と必ず言った。人を見下すような視線とともに。そしてその後もまるで人を落伍者のように扱った。  もう余計なお世話もいいとこだ。それに、読まない・興味がないなんて一言も言っていない。僕は僕のやり方でやると言っているのだ。僕のやりたいようにやることが企業に受け入れられないのならそんな会社はこっちから願い下げだ。  恐らくはそういうやり方も勧誘方法の一つなのだろう、と頭では分かっていても、やはり少しは傷つく。  大学1年の頃はそんな風によく傷ついていた。たぶん僕が弱いせいだと思うけど、けっこう些細なことでもよく気にかけていたような気がする。  でも最近はどうもあまり傷つかなくなったような気がする。今も昔もぼろくそに扱われる点では一緒なのだが。どうしてだろう?今では、勧誘の人と談笑できるようにすらなっている。この前は英会話学校から電話で勧誘があったのだけど、電話のお姉さんと一時間近くも楽しくお喋りして盛り上がってしまった。大学一年の僕から比べたら殆ど別人だ。  勿論、その方が、いちいち勧誘の人の理不尽な言動に傷ついて一日を憂鬱な気分で過ごすということが少なくなるから良いのだけど。それはそれでちょっと悲しい、と思う。   出来るだけ心の痛みに敏感でありたいし、出来るだけ自分の感受性を保ち続けたい、と僕は思っている。僕は一応曲がりなりにもモノ作りに携わる人間だし(あくまで趣味の範疇で、だけど)、モノを作るにはsensitivityは欠かせないと考えているからだ。「仏つくって魂入れず」じゃないけど、ある意味作者が乗り移っていない作品は何も語りかけては来ない。  また、作品云々とは別に、傷つく心はよい意味での若さの象徴だとも思う。誰しも経験があると思うけど、高校くらいまでは本当に色んな事に燃え、苦しみ、泣き、笑った。日常に転がっているささやかな事象がその年頃の僕には「事件」として移った。とにかく色んな事にノミのような僕の心を痛めていた。  その時は日々を必死の思いで乗り越えているように感じたものだが、今にして思えば自分の日常をドラマ化していたように思えなくもない。何でも大げさに受け止めていたということだ。今も、必死で頑張るときも勿論あるけど昔ほど「ドラマチック」ではない。それは結局自分の心の持ちように帰するのだが、ちょっと寂しい。  十年後の自分が「傷つく心」をどれだけ持っているかを考えるとちょっと怖い。おそらく、日々の雑多な出来事に揉まれていくらかタフになり、よりスマートに困難を乗り越える術を身につけているのだろう。  だけど、それは今立っている地点からどんどん遠ざかるということでもあるからだ。