turn on the Radio

 よくラジオを聴く。オールナイト日本のように、パーソナリティの喋りと葉書で寄せられるリスナーのネタや意見が火花を散らせる様子を聞いているのも楽しいし、FM放送の、絶えず流れる音楽の洪水に身を埋めるのも心地よい。

 ラジオにはいろんな事を教わったような気がする。それまであまり聴かなかった類の音楽、役に立たないけど面白い話、ちょっとエッチな知識とかも。どれもどちらかといえば、テレビではあまり流されない、あるいは流すといろいろと支障のある話だ。
 テレビに出ているときと比べると、パーソナリティはかなり自由気ままに自分の喋りたいことをつっかえながらも自分の言葉で話す。これはある程度、ラジオ番組における一般論として断言してもいいと思う。変な規制はおそらくテレビよりは圧倒的に少ない。葉書を通してではあるけど、リスナーと直に繋がっている、という実感が本人たちにはあると思う。聴いている側もそう思っているはずだ。だから、彼等は自分の青春時代の間抜けな話や現在の近況をためらわずに詳しく話したりすることが出来る。これは、ファンとの「信頼」関係に基づいているから為せる、と僕は思っている。

 宅浪時代に突入する前、ポータブル・ミュージック・プレーヤーを買った。購入するにあたり、絶対にFM・AM・TVチューナー内臓のものを買おうと硬く心に決めていた。そんな思いを込めて買ったポータブル・ミュージック・プレーヤーは、ラジオ好きの僕にとっては史上最強絶対無敵のミュージックプレーヤーとなった。テープは自分のお気に入りの曲を寄せ集めることが出来るという点で優れているけど、何回も聞き続けているといくら何でも飽きる。そういうときにラジオは重宝するのだ。スイッチをつけると、ラジオ番組からは楽しく悲しく時には真剣な話が聞こえてくる。FMにチューンを合わせれば、そこには未知の曲が珠玉のように広がっている。
 文字通り酷使というべきかなりヘヴィな使い方をしていた。"歩くプレーヤー"なのにも関わらず、歩きながら使用した頻度は全体の使用頻度の10%位だと思う。実際に多かった使用方法は、「チャリこぎ着用」と「run-man」だ。「チャリ~」は主に通学途中に自転車に乗りながらヘッドホンを着用するというもので、音楽を聴きながら自転車をこいでいると、普段の1.5倍くらい早く走れるような気がする。だけど、いうまでもなく危険極まりない乗り方で、お巡りさんとすれ違った場合、運が悪ければ注意されるような気がしないでもない。僕はまだないけど。「run-man」はもっとすごい使い方で、文字通り、ジョギングしながら聴くことだ。これは振動が機械によくないし、汗でべたべたになるしで間違いなくウォークマンの寿命を縮める。でも、音楽を聴きながらジョギングをするのはとても気持ちのよいもので、なんだか永遠に走り続けることが出来るような錯覚に陥る。

 京都に着てからもラジオ好きは変わらず、むしろ暇な分だけ聴く時間が増えたような気もする。真昼間から大学のベンチで寝っ転がり、青空を眺めながら「無敵」プレーヤーでFMを聴くととても良い気分になれた。ただ、DJが面白いことを言った時はやはり思わず笑ってしまうのだが、傍目に見ると一人ベンチでニタニタ笑うただの危ない人にしか見えないところが辛い。
 2年の頃までは、田辺キャンパスという、京都府の南に忘れ去られたかのようにポツンと位置する静かなキャンパスに通っていた。語学の勉強などで忙しかったにもかかわらず、妙に暇だったような印象しか残っていない。近くに遊び場がなかったからだろう。ただキャンパスはだだっ広くて見晴らしは最高だったので、別に遊びに行かなくても、芝生の上でパンでも囓りながらFMを聴いていれば、それはそれで悪くはなかった。
 京都の話に入ってからFMばかり話題に上っている。これはどうしてかというと、残念ながら京都に来てからまだ面白いAMの番組に出会っていないからである。だから、京都ではオールナイト日本以外、まずAMを聴くことはない。申し訳ないけど。でも、かわりといっては何だが、FMは充実している、と僕は思っている。地元放送局があるのだけど、僕は何を隠そうそのヘビーリスナーである。どの番組も一定以上の水準を保っていて、僕は楽しく聴くことができる。

 そんな僕がそもそもラジオを聞くきっかけとなったのは、中学一年の吹奏楽部の夏合宿のとき、友人が「面白い番組あるから」と僕に一緒に聞くように勧めてくれたことだ。その番組はたしかにとてつもなく面白く、それからというもの、僕は旭川を離れる日までその番組をやっていた某アナウンサーのいろんな放送を聞きつづけることになる。あの時勧めてくれた友達は今どうしているのかな。