本当の僕は何処にいる?

 他人とコミュニケートする時に、その手段によって僕のイメージが異なる、とよく相手に言われる。直接対話、電話、手紙等々、それぞれの中にそれぞれの僕がいるというのだ。

 直に面と向かって人と話すとき、特に知り合って間もない頃は、おとなしい人というイメージを与えるらしい。たしかに僕は初対面の人と話をするのがけっこう苦手で、特に相手が可愛い女の子だともう駄目だ。意味もなく照れる。
まあ、ある程度知り合ってからはそれなりに喋るし、凍える吹雪のような寒いギャグを連発するようにもなる。さすがに、関西人の放つマシンガン級のシームレストークにはかなわないし、また張り合うつもりも更々ない。要するに、ごくごく普通だと自分では思っているのだけど。
 一方で、文章上の僕はよく喋るらしい。手紙にしてもとりあえず文章量が多い、と半ば苦情交じりに感想を漏らされる。僕自身、文章を書くことはけっこう楽しく、割に苦もなくクソ長い手紙を書いて、相手に迷惑をかけてしまう。たぶん、口下手の僕としては、ある程度考えを整理してから情報発信できる(あるいは書きながら考えを整理できる)手紙という伝達方法が割りに性に合っているのだと思う。でも、故郷の友達に手紙を書いているって言うと「へぇー案外まめなんだ」とかよく言われるのだけど、そんなに俺って手紙を書くような人間には見えないのか...と考え込んでしまう。んー。

 ちょっと本題からはそれるけど、僕の顔から受ける性格のイメージっていうのもこれまた色々あるらしい。まだそれほど打ち解けていない人とお喋りをする時、自分でも思うのだけど、僕の顔はかなり締まりのない顔になっている。意味もなく笑みを湛え、よく笑う。こうやって文章にしてみるとあるいは好印象と受け止められるかもしれないが、実物はそりゃもう阿呆面だ。2ヶ月ぶりに旅から戻ってきたご主人様を狂喜乱舞して迎える犬を想像していただきたい。それがまさに他人と接するときの僕だ。
 一方で、一人でいる時は傍目には無愛想で時には怒っているように見えるらしい。仏頂面というやつだ。よく大学で、授業の後、友人に「教室で見かけたんだけど、なんか機嫌悪そうだったから声かけなかった」といわれることがある。今までに頂戴した中で最も凄い感想は「鬼神の如き怒り顔」である(苦笑)。たしかに授業中は先生の話を集中して聞こうとして目つきが鋭くなったりすることもあるけど、それを機嫌悪そうと捉えられる僕の顔って一体...と悲しくなる。まあ、仕方がない。


 とにかく、いろいろな「西川晃太郎」が存在してしまっているのだけど、一体どれが本当の僕なのだろうか。それがこの文章のテーマでしたね。
 答えは簡単。どれもが本当の西川晃太郎である、ということです。
 別に、八方美人とかそういうわけではなくて、一般論として人にはいろんな側面があると思う。だから、かつて抱いていた僕のイメージと違う「僕」があらわれた時、戸惑うのはたしかに分かるけど、どうか寛容に「へぇーこんな側面もあるんだ」と受け止めてほしい、と思う。一時だけの印象で決め付けないで、出来るだけ長い時間をかけて、僕というこの混沌とした大地を歩いてみてほしい。

 って、ここまで書いて思ったのだけど、俺は一体誰に向かってこのメッセージを書いているのだろう。